当たり前の話ですが、高山にいると毎日飛騨弁が聞けます。そこらかしこに地元のネイティブスピーカーがいらっしゃって、会話する度に嬉しくなって今日も喋ってくれてありがとうと毎日感謝しております。ジョアンジルベルト(Joao Gilberto)のアルバムを百万回ほど聴いてたら、ポルトガル語が妙に飛騨弁に聴こえてきて最近よく歌っています。ジョアンと飛騨の人が使う言葉、アクセント、リズム、音感、脱力感、すべて好きです。
CHEGA DE SAUDAGE/シェガジサウダージというブラジルのボサの名曲があります。アントニオカルロスジョビン(Antônio Carlos Jobim)という天才が作曲、外交官で詩人のヴィニシウス・ヂ・モライス (De Moraes Vinicius)が作詞、歌手ギターリストのジョアンジルベルトのデビュー曲です。
歌詞の内容は失恋ソングですが、訳せば訳すほどびっくりするほどダメ男の歌です。日本人はこんな直接的に歌えないなと思いました。でも歌えたらいいのにとも思いました。去って行った彼女に、ただただ悲しすぎるから帰ってきてくれと懇願する歌です。この詩を外交官が作詞する国ってどんなだろうと思いました。国民性という言葉はざっくりし過ぎてあまり好きじゃない。どの国にもダメな男女はいるのだから人それぞれなんだろうけど、少なくとも男側に自分の弱さを曝け出せるようなマインドがあるなら森元首相のような女性に対するああいう発言は生まれなかったんじゃないかと思うのです。
ブラジルの男性の女性への帰ってきてソングを飛騨弁で歌うとこんな感じです。方言で歌う事でボサノヴァが醸しだす妙なリゾート感も無くなって良かったです。飛騨の皆さん、毎日訛ってくれて本当にありがとうございます。おかげで自分もかなり訛ってきました。
「CHEGA DE SAUDAGE 憂鬱はもうええんやさ」日本語詩 soragoro
あばえな(さよなら)哀しみ あり(彼女)居らんと だしかんて言ってくりょ 頼むで帰ってこんと おり(自分)は もうもたん(耐えられない)のやさ 憂鬱は もう ええんやさ(要らない)あり無しでは 天竺も美しゅうもない ただ てきない(切ない)このおぞい(悪い)気持ち のうならんのやさ(無くならない)のうならんのやさ ちっとも(少しも) もういっぺん ありが帰ってきたんなら そりゃ うたてぇな(ありがたい)えれぇ嬉しがる そしゃ川の魚の数よりも ぎょうさん ありの口べら(唇)にキッスしからかす(しまくる) おりの腕の中 ありを たぐり(引き寄せて)何遍も何百万回も ひっついて(くっついて)離れんよに 離さんよに そうそと(大事に)な キッスと愛撫の繰り返し おり無しで 行きょるのは(行こうとするのは)おかんか(やめようよ)おきない(やめなさい) 遠く離れて居るなんて 勘考し直して(考え直して)くりょ あり無しの人生は だしかんさ(ダメさ)かに(堪忍)な
Vai minha tristeza E diz a ela que Sem ela não pode ser
Diz-lhe numa prece Que ela regresse Porque eu não posso mais sofrer
Chega de saudade A realidade é que Sem ela não há paz Não há beleza É só tristeza e a melancolia Que não sai de mim Não sai de mim Não sai
Mas se ela voltar, se ela voltar Que coisa linda, que coisa louca
Pois há menos peixinhos a nadar no mar Do que os beijinhos que eu darei na sua boca
Dentro dos meus braços os abraços Hão de ser milhões de abraços Apertado assim, colado assim, calado assim Abraços e beijinhos e carinhos sem ter fim
Que é prá acabar Com esse negócio De viver longe de mim
Não quero mais esse negócio de você viver assim Vamos deixar desse negócio de você viver sem mim
ジョアンジルベルト&カエタノヴェローゾ https://youtu.be/aECYvZsgobc
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